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培養肉開発トップランナーの米国
“もしトラ”で州の禁止令はどうなる?

こんにちは。フリージャーナリストの中野栄子です。これまで出版社や新聞社で食の問題について取材・執筆を重ねてきました。今月から、こちらに機会をいただいて、細胞農業や細胞性食品(培養肉)について書かせていただくことになりました。ジャーナリストの目から見た細胞性食品にまつわるその時々の話題をまとめます。初回の今回は、米国の最新事情です。

米農務省(写真)は「細胞培養チキン」の表示を許可した

米国連邦政府は事実上安全性を確認

 これをお読みの方は、十分ご承知のことと思いますが、まずはざっと簡単に細胞性食品について整理してみます。細胞性食品は、消費者や一般社会の間では培養肉と呼ばれ、ここ数年で耳にするようになりました。牛、豚、鶏などから生産する食肉ではなく、実験室のシャーレの中で培養する肉というイメージ抱いていると思います。

 実際、世界の研究機関ではこうした研究に取り組んでいます。フードテックと呼ばれる、食品を巡る先端研究の一端でもあります。では、なぜ細胞性食品の研究がなされているのでしょうか。それ現在の畜産業がこの先、継続していけるかどうかが問われるようになったからです。

 世界の人口は増え続け、2050年には100億人に迫ると予想されており、そうした人口に対して現在の畜産業だけでは必要なたんぱく質を供給できないとの試算があります。また畜産は牛のメタンガス排出や大量の水資源を必要とするなど、環境負荷の大きさも無視できません。加えて牛の常在菌の一つでもあるO157など、衛生管理の負担も増えています。

 さらに動物福祉の観点からも畜産業には逆風が吹き始めました。米ニューヨーク市では2019年、ガチョウの肝臓を強制的に肥大させる飼育法が非人道的であるとして、高級食材のフォワグラの提供を禁止する条例が可決されました。英国でも、牛肉は環境負荷が高いという理由で、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学の学食での提供が禁じられました。

 こうした背景から細胞性食品の研究開発が加速しています。2016年から2022年までの累計で、米国、英国、イスラエル、オーストラリア、フランス、韓国、シンガポール、日本が25億3700万ドル(1ドル150円換算で約3805億円)を細胞性食品に投資しています。このうち、米国は15億8000万ドル(同2370億円)と、トップランナーとしての地位を確保しています。米国における細胞性食品について技術開発を行っている企業数は2022年時点で43社と、こちらも世界最大。

 米国では2022年9月、バイデン政権はバイオテクノロジーやバイオマニュファクチャリングに関する大統領令を発表し、その際「培養した動物性細胞により作られた食品を含む新しい技術を通じて、食料安全保障の改善と農業分野のイノベーションを促進する」と話したといいます。また、米FDAは2022年11月にUpside Food社の、そして2023年3月にGood Meat社の細胞性鶏肉の安全性について「これ以上の疑問はない」と発表しました。決して「細胞性鶏肉は安全である」とは言っていないのですが、事実上の安全性が確認されたと見なします。さらに、米農務省は両社の細胞性鶏肉に対して「細胞培養チキン」という用語を使用して表示することを承認しました。

米国内でいったん発売したが今は休止

 その米国の市場で細胞性鶏肉が国民にどのくらい支持されているかといえば、安全性が確認され、表示も承認されたものの、今現在、流通の実態はありません。2023年9月、米国サンフランシスコのレストラン「BAR CRENN」で150ドルのコース料理の中にUpside Food社の細胞性鶏肉が出されるとあって、細胞農業研究機構代表理事の吉富愛望アビガイルさんが予約を申し込んだそうですが、人気が殺到したのか予約枠が一杯となり、かなわなかったそうです。その後、同レストランでの細胞性鶏肉の提供は休止されています。

 また、Good Meat社は世界で初めてシンガポールで細胞性鶏肉を販売しているスタートアップとして有名ですが、米国内ではワシントンD.C.の飲食店「CHINA CHILCANO」でラインアップしているものの、やはり現在販売休止中とのことです。Wildtype社の細胞性サーモンも上市が待たれているところですが、こちらも承認手続きが滞っているようです。

 どうも米国では、2023年以降の投資の勢いに陰りが見えてきているようなのです。米国での細胞性食品に関する2021年の投資額が6億9900万ドル(1ドル150円の換算で約1048億円)、2022年が5億7800万ドル(同約867億円)だったのに、2023年になると4900万ドル(同約73億5000万円)と大幅減少しました。案件数はあまり変わらず、1件当たりの金額が減少したとのことです。

 これには思い当たる節があります。カリフォルニア州で細胞性鶏肉が販売されることになったものの、それと前後して全米の一部の州で共和党議員や知事による(一部超党派で民主党議員も)、細胞性食品に対する反対法案が次々と上程されたのです。

 2023年6月、テキサス州のグレッグ・アボット知事(共和党)は代替食品に明確な表示を義務付ける法案に署名。11月、ネブラスカ州のデーブ・フィッシャー議員(共和党)が代替たんぱく質に「似非」の表示を義務付けるReal Meat法案を再上程。同じく11月、フロリダ州のタイラー・シロワ議員(共和党)とダニー・アルバレス議員(共和党)が罰金1000ドルを科す培養肉禁止法案を上程。2024年1月、アリゾナ州のデイビッド・マーシャル議員(共和党)が罰金2万5000ドルを科す培養肉の全面禁止法案を上程。同じく1月、連邦議会超党派のジョン・テスター議員(民主党)とマイク・ラウンズ議員(共和党)が学校給食での偽肉提供の禁止法案を上程。

 そして2024年2月、ついにアラバマ州の上院でジャック・ウイリアム議員(共和党)が上程した培養肉の製造・流通・販売の禁止法案が可決。続いて3月、テネシー州の上院でフランク・ナイスリー議員(共和党)が上程した、違反者に100万ドルを科す培養肉禁止法案が強硬採決されたのです。さらに、5月初旬、フロリダ州のロン・デサンティス知事(共和党)が培養肉の製造や販売は犯罪であるという法案に署名しました。

禁止令は畜産業からの票獲得のため?

 米国ワシントンポスト紙の報道によれば、デサンティス知事が禁止令に署名したのは、健康や安全への懸念ではなく、州内の畜産業などを保護するためとしています。つまり、畜産業従事者の票を期待してのことだと推察し、極めて政治的だと思いました。

 その牧場主である共和党のディーン・ブラック州議会議員は「培養肉は本物の肉ではありません。人間が作ったものです。本物の肉とは神様が作ったもの」と言います。「神の所業に手を出すな」という主張で、農家を守るふりをして保守層の票をとりまとめようとする意図が見え隠れしているではありませんか。もっと言えば、培養肉禁止令は貧困で食料品が買えないという解決困難な問題から目をそらせようとしているのではないか、ともささやかれているのです。

 このように米国で細胞性食品の普及が遅れていることについて、米国の細胞性食品の開発に携わる関係者は、主に2つの理由があると言います。1つは、農業生産者や畜産業者などロビイストの強い影響力です。彼らは実験室で培養された細胞性食品を伝統的な食肉業界に対する脅威と見なし、積極的に抵抗しているのです。もう1つは、米国はこれまでに主だった食料不安を経験していないため、代替たんぱく質を受け入れる切迫感がないのです。「従来からの食肉への豊富なアクセスと家畜飼育への強い文化的な愛着が、培養肉への移行を妨げているのでは」と説明してくれました。

 最後に、もう一つ米国で気になる動きがありました。米国防総省はこれまで兵士の健康増進のために様々な研究を行ってきましたが、2024年5月に細胞性食品の開発を禁止するという案を打ち出したのです。これも、一部の州での反対運動の延長の現象かと思いきや、真相は分かりませんが、ウクライナへの兵器提供など軍事予算増大の影響なのかもしれません。

 さて、11月には米国大統領選挙が行われ、細胞性食品問題の行方が気になるところです。あるスタートアップ企業の関係者は、「FDAは連邦機関であるため、FDAが事実上安全性を認めたことを州が覆すことはできませんが、来る大統領選で、もしも共和党候補のドナルド・トランプ氏が勝利すると、培養肉禁止は国家レベルの問題になりそう」と、不安を打ち明けています。「民主党候補のカマラ・ハリス氏が勝利すれば、そんなことはないのだけど」とも付け加えました。

 米大統領選の結果は本欄でもリポートしますので、どうぞご期待ください。

ジャーナリスト 中野栄子
東京都出身。慶應義塾大学文学部心理学科卒。日経BP社「Biotechnology Japan」副編集長、「日経レストラン」副編集長、「FoodScience」発行責任者、日本経済新聞社「NIKKEISTYLEグルメクラブ」編集長などを経て、現在フリーで食・健康・環境分野を取材・執筆中