欧州の培養肉開発
イタリアに続き、ハンガリーでも禁止?!
先月は、米国における細胞性食品(培養肉)の最新情報をお伝えしました。これをお読みいただく頃は、米国大統領選挙の結果も出て、細胞性食品産業に関する新たな政策も取り沙汰されていることでしょう。今回は、欧州の最新事情についてまとめます。欧州といえば、昨年イタリアで培養肉の禁止法案が可決され、関係者の間に衝撃が走りましたが、今年はハンガリーも培養肉の禁止を打ち出しました。
ハンガリーの培養肉禁止法案にECはノー!
ハンガリーに培養肉の禁止法案が出たのは、今年7月のこと。欧州連合(EU)のAgriculture and Fisheries Council (アグリフィッシュ:EU加盟国の農水大臣が構成するEU評議会の1つ)で、議長国であるハンガリーは、培養肉のような新規食品からヨーロッパの料理の伝統を守ろうと呼びかけました。ただEUには、加盟各国が法律を新たに施行する場合、その法律が域内市場に適合し、貿易障壁とならないことを保証するための、技術規則情報システム(TRIS)という承認手続きを経なければなりません。
今回、ハンガリーはTRISにおいて、法案を審議するEUの委員会に提出するとともに、「人の健康と環境の保護に加えて、農業の持続可能な生産と伝統的な農村生活様式の維持は、規制の導入を正当化する」と訴えました。これは、細胞性食品(培養肉など)の安全性がどのように保証されているかは不明だとも読めるものです。そして、「伝統的な家畜ベースの食肉生産は、国内の食料経済の将来、特に食料生産の持続可能性と農村の保持力にとって最も重要だ」「実験室で育てられた肉の生産量の増加は、農業や農村の生活条件に悪影響を与える可能性がある」と、培養肉を禁止する法案の正当性を主張しました。
TRISにおいて加盟国が法案を委員会に提出すると、そこから3カ月は加盟国がその法案を可決することができない停止期間が設けられます。その間に、委員会が法案を審議します。その結果は4段階のいずれかの回答として出されます。1番目は、「回答なし」というもので、法案に問題はないという意味です。2番目は「コメント」。法案に対していくつか疑問が出されますが、これに回答する必要はないものの、コメントを考慮する必要があります。3番目は「詳細な意見」で、法案に対して重大な懸念を示すものです。この場合、停止期間は最大 6カ月延長される可能性があり、その間に加盟国は懸念に対して回答し、「法案を修正」「法案を正当化」「法案を放棄」のいずれかの対応をすることになります。4番目は「差し止め」です。同様の法案をEU 全体が立法する予定がある場合など、ECのみが加盟国の法案を差し止めることができます。
今回のハンガリーの提案に対する回答は、3番目の「詳細な意見」に当たります。審議の結果、ECはEUレベルでの科学的評価を含む新規食品の適切な承認手続きを混乱させる可能性があると指摘しました。もっと言えば、ハンガリーは培養肉に対する科学的エビデンスを提供していないと、ECは強く批判したといいます。なお、ハンガリーは2025年1月中旬までに、TRISの手続きに対応しなければなりません。ハンガリーがこれに応じない場合、また今回の異議を考慮せずに禁止を進めた場合、欧州司法裁判所に問題を提起する可能性があると警告しています。
ハンガリーのフォワグラ産業に危機?
欧州の複数のメディアでは、ほかのEU諸国もハンガリーに対して否定的な姿勢を見せていると伝えています。スウェーデンは、「人の健康に有害であるという理由で培養肉禁止を正当化することは受け入れられない」と指摘し、「培養肉製品が人や地球の健康を脅かす可能性があるという科学的検証を行っておらず、リスク評価結果も提示していない」と批判しました。チェコも、ハンガリーの培養肉禁止法案はEUの自由市場に対する障害となると主張しました。培養肉を含む食品技術の革新こそがEUの発展につながるということで、そのためには既存のEUの法的枠組みを尊重すべきだということです。
リトアニアは、世界人口が2080年までにピークに達するに当たり大量のたんぱく質の必要性を指摘し、培養肉をはじめとする代替たんぱく質産業の発展こそが、高付加価値食品の輸出を促進し、新たな雇用を生み、EUの繁栄につながると表明しました。米国、イスラエルが培養肉の安全性にかかわる整理を終えており、そのうち米国とシンガポールが販売を事実上許可していることを踏まえ、EUがこの分野での世界的競争力を維持し、世界基準の決定にも影響力を発揮すべきではないかということです。
ところで、ハンガリーはなぜ培養肉の禁止を打ち出したのか考えてみました。同国は「細胞農業は既存の農業や農村に悪影響を与えるから」としています。ハンガリーの農業といえば、フォワグラ生産が世界的にも有名です。フォワグラの世界生産約2万4000トンのうち、1万6000トンを生産するフランスを筆頭にハンガリーとブルガリアが続き、3国合わせて世界の9割を生産しています。フランスは高級品を、ハンガリーとブルガリアはお手頃品をと棲み分けており、フランスは2割を輸出し、その分同量をハンガリーやブルガリアから輸入しているそうです。また、出荷前の数週間をフランスで飼育すれば、フランス産と表示できるため、ハンガリーで飼育されたガチョウやカモの多くがフランス産になっていることから、ハンガリーこそ陰のフォワグラ大国とも言われています。
ただ、このフォワグラは最近、動物福祉の観点から販売禁止に向かう国や地域が出てきました。そんなところへ、動物の命をいただかない細胞農業が注目を浴び始めたことで、フォワグラ産業は危機感を感じ始めたのではないでしょうか。また、フォワグラは古代ローマ人がガチョウを飼育してその肝臓を食べたのが始まりとされ、ルネサンス時代に産業として確立したと言われています。ハンガリーにとっても伝統食文化として深く根付いているのです。まさに「細胞農業は既存の農業や農村に悪影響を与える」ということなのでしょう。米国の一部の州で培養肉の禁止法案が可決されたのも、地域の畜産業を守るためとしており、同じ構造といえましょう。
イタリアの禁止令、勝手にやったの?
ハンガリーの培養肉禁止法案はTRISの手続きにおいて、ECから「ノー」を突き付けられた格好ですが、イタリアはEU加盟国でありながら、なぜ禁止法案が可決されてしまったのでしょうか。イタリアの法案可決に至るまでの状況を振り返ってみます。
まずは2023年3月、農業・食料主権・森林省のフランチェスコ・ロロブリジータ大臣が培養肉などの細胞性食品の製造・販売を禁止する法案を上程。同年7月には上院を通過し、同年11月16日、下院にて「培養肉などの細胞性食品・資料の生産や販売を禁止する法案」が、賛成159人、反対53人、棄権34人をもって可決されました。
法案成立を推進したロロブジリーダ大臣は、「食糧安全保障やイタリアの伝統的な食文化、生産者、消費者を守る必要がある」「EUの中で細胞性食品の製造・販売を禁止した最初の国であることを誇りに思う」「EUがイタリアの選択が正しいと決断するまで働きかけていく」と言い、文化と産業を守る強い姿勢を堅持しています。イタリアの農業団体の代表を務めるコルディレッティ氏は「国内で最終決定が下された今、戦いの場は欧州。食品の品質と安全性で先行するイタリアは、国民の健康を守る政策のために戦う義務がある」と主張していますが、培養肉が人の健康を損なうという科学的根拠は示していません。
上述したようにEUでは、EUの単一市場に影響を与える可能性のある法案を成立させようとする場合は、前もってTRISの手続きを踏まなくてはなりません。イタリアも法案を発表し、3カ月の停止期間に入りましたが、その期間終了前に法案を可決してしまったのです。これに対して、細胞農業推進に賛成するNGO団体のグッド・フード・インスティテュート・ヨーロッパ(GFI Europe)の広報コンサルタントであるフランチェスカ・ガレッリ氏は、「イタリアの法律は、TRISの手続きに違反して必要な停止期間を遵守せずに可決されたため、欧州司法裁判所の判決に基づいて執行不能になる可能性がある」と説明しています。
新規食品はEU全体のレベルで安全性などが確認された後、承認されます。培養肉もEUで承認されれば、27の加盟国すべてで販売できるのです。そうすると、イタリアの培養肉禁止令はECから異議を申し立てられる可能性が出てきますし、企業がイタリアで培養肉を販売しようとして、それが阻止されることも、法廷で異議を申し立てられる可能性があるわけです。
また、GFI Europe代表のレイベンスクロフト氏も「このような法律が成立すれば、新たな分野の経済可能性を閉ざし、科学の進歩や気候変動緩和への努力を妨げ、消費者の選択肢を制限することになるとともに、ほかの欧州各国や世界が、より持続可能で安全な食料システムに向けて前進している中で、イタリアは取り残されることになる」と禁止令に強い拒否感を示しました。
細胞肉を禁止ではなく農家の儲けに
さて、欧州で細胞農業への取り組みが最も進んでいるオランダは、今回のハンガリーに対してどのように見ているのでしょうか。そもそも、まだ培養肉が市場に出ていないのに、販売を禁止することへの疑問を呈しています。オランダでは、培養肉を禁止するのではなく、培養肉が畜産農家の増収につながる可能性を模索しています。すでに、畜産農家が自身の農場で細胞農業に取り組みたいという意向も出ているとのこと。つまり、ハンガリーは培養肉を禁止することで農業と農家を守ると言っていますが、細胞農業に取り組むことで農業と農家が発展するというのが、オランダの主張です。
ちなみに、オランダの細胞農業企業、Mosa Meat社とNutreco社に対して、ECは2021年10月、新型コロナウイルス禍からの経済復興を支援する財源であるREACT-EUから200万ユーロ(1ユーロ165円換算で約3億3000円)の資金提供を決めています。また、オランダ政府は2022年4月、細胞農業のエコシステム形成に向けて6000万ユーロ(同約83億円)の補助金を出すと発表しました。この補助金は、革新的な経済分野に公的資金を入れることで構造的な経済成長を創出するThe National Growth Fund(国家成長基金)の一部として出されており、オランダ政府は細胞農業を育成すべき新規産業として捉えているのです。2023年7月には、細胞性食品の開発企業と共に試食に関する「行動規範」も作成しました。ECにおいて、オランダは今後も細胞性食品の開発をけん引し続けるのではないでしょうか。
ジャーナリスト 中野栄子
東京都出身。慶應義塾大学文学部心理学科卒。日経BP社「Biotechnology Japan」副編集長、「日経レストラン」副編集長、「FoodScience」発行責任者、日本経済新聞社「NIKKEISTYLEグルメクラブ」編集長などを経て、現在フリーで食・健康・環境分野を取材・執筆中