英国のサンドボックス
細胞性食品の実用化の切り札?!
2025年2月7日、英国の大手ペットケア店「Pets at Home」の店頭に細胞性チキンを原料としたペットフードが並びました。細胞性商品の販売としては欧州初、ペットフードに限定すれば世界初のことです。英国で細胞性食品の実用化が加速している背景には、「サンドボックス」という独特の取り組みがあります。今回は、その取り組みについてまとめます。

環境意識の高まりでペットにも細胞性チキン
世界で初めて販売された細胞性ペットフードは、英国ロンドンを拠点とするスタートアップ企業のMeatlyが開発する細胞性チキンを、ビーガンペットフードメーカーのThe Packが取り入れて、「Chick Bites」という犬用のおやつ製品にしたもの。50グラム入りのパウチが3.49英ポンド(1英ポンド=191円の換算で約667円)で、約750ユニットが限定生産されたといいます。
犬のおやつの値段にしては少々高いと感じますが、一般のペットフードではなく、原材料や製造方法にこだわり、これまでにも高級な製品を提供しているThe Packの製品ですので、十分市場に受け入れられる価格なのでしょう。昨今の世界的なペットブームで、ペット関連市場は急速に拡大しています。自身が利用するエステサロンよりも高額なペット用のエステサロンを利用したり、高額な先端医療を受けさせたりと、ペットにかける費用に糸目をつけない飼い主は少なくありません。
英国のメディアが報じるところによれば、英国の肉消費量の22%をペットフードが占めているといい、これは英国の子供たちが毎年食べる量よりも多いそうです。また、国内で最も人気のあるペット犬であるラブラドールは年間7000万キログラムの肉を消費しており、これは飼い主の消費量より約60%多いといいます。
細胞性食品の議論においては、世界の人口増加、食料不足、食料安全保障の観点でなされることが多いのですが、人間だけではなくペットの頭数、給餌量をも考慮しなければならなくなったようです。それほど、ペット市場が無視できなくなったということでしょう。
ペットに対する環境や持続可能性への意識は確実に深まっているようです。L.E.K.コンサルティングが実施した「グローバル・コンシューマー・サステナビリティー調査2024」によれば、消費者の51%が環境問題のためにブランドや製品を切り替え、そのうちミレニアル世代では56%、Z世代では58%に上ったといいます。ペットフードに関しては、消費者の58%がサステナビリティーへの懸念から商品を切り替え、54%が高くても環境に優しいペット製品を購入すると回答。そして消費者の36%が、2024年に持続可能なペットフードに支払う金額が3年前よりも高くなると答えました。
英国はサンドボックスに約3億円拠出
欧州初の細胞性食品の販売、世界初の細胞性ペットフードの販売が実現したのは、英国のサンドボックスという制度が大きく貢献しました。サンドボックスは新規製品の実用化で認可のスピードアップとコストの大幅削減が期待されるものですが、いわゆる規制緩和とは違います。従来の食の枠組みにおいては細胞性食品を想定していないので、開発企業から収集した技術情報や業界からの意見をもとに官民一体となって新たにルールを構築していくイメージのようです。企業機密が流出しないよう、クローズドの取り組みであることが特徴です。
2024年10月、英国政府はFSA(食品基準庁)に対し160万ポンド(1英ポンド195円の換算で約3億1200万円)の資金を交付し、欧州では初めてとなるサンドボックスプログラムを創設したのです。運用は2025年2月から2年間、FSAとスコットランド食品基準庁(FSS)の共同でなされます。
英国がサンドボックスを創設した背景には、代替たんぱく質を含む先端バイオテクノロジーの開発・実用化の許認可プロセスをEU離脱後もEUのプロセスを踏襲していたものの、遅滞が著しかったことにあるといいます。
政府は2023年に「Engineering Biology policy paper」という政策文書の中で、代替たんぱく質を含むエンジニアリング・バイオロジーのためのサンドボックス創設を示唆していたこともあります。パトリック・ヴァランス科学大臣も「細胞培養製品の安全な開発を支援することで、企業にイノベーションへの自信を与え、持続可能な食品生産の世界的リーダーとしての英国の地位を加速させる」と述べたそうです。
こうして創設されたサンドボックスにおいては、FSAがスタートアップ企業や研究者と協力し、新しいルール・基準・ガイドライン設置を支援します。また、英国政府は事務手続きの負担を軽減し、実用化の後押しするために、運輸省(DfT)、保健省(DHSC)、環境・食料・農村地域省(Defra)と連携する規制改革推進室も新設しました。さらに、細胞培養製品やその製造技術に関する科学的証拠を収集し、製品の安全性を確保するために、新規にスタッフも採用しました。
サンドボックスでプロジェクトを進めることによる大きなメリットは時間とコストです。従来、申請から認可までに平均2年6カ月かかっていたものが、FSAの法定目標は1年5カ月に短縮されています。また現在1製品当たり35万~50万ポンド(1英ポンド195円の換算で、約6825~9750万円)かかっている申請コストも大幅に削減される上、民間投資を誘発しやすい環境も整えるとのことです。
政府は、サンドボックスが気候変動対策に役立つことも強調しています。CO2排出ゼロの目標を達成するためには、英国人は持続可能なたんぱく質のイノベーションを先導し、2050年までに肉の消費量を35%削減する必要があると、英国のClimate Change Committee(CCC)は述べたといい、細胞性食品の開発・実用化は確実にそれを後押しするというわけです。
さらに、サンドボックスは消費者に幅広い選択肢を提供することが期待されます。FSAでは、科学的根拠に基づき最善の安全基準を維持しながら消費者の正しい選択に資するよう、食品表示問題にも厳密に対処するとしています。
サンドボックスに8社が新規参加
さて、創設されたばかりのサンドボックスプログラムですが、このほどスタートアップ企業8社が新規に参加しました。英国のHoxton Farms、Roslin Technologies、Uncommon Bio、米国のBlueNalu、オーストラリアのVow、オランダのMosa Meat、フランスのGourmey、Vital Meatと、英国以外からの参加意欲も旺盛です。なお、フランスの2社は、英国のスタートアップ企業Ivy Farm TechnologiesとイスラエルのAleph Farmsと共に、英国での細胞性食品の承認待ちの段階にあります。この4社も早ければ2025年中の承認が期待されているとのこと。
英国の規制当局は、今後2年間で少なくとも15の申請を見込んでおり、多くの細胞性食品のスタートアップが生まれ、開発が加速される可能性があると予測しています。
コスト削減、スピードアップが見込まれるサンドボックスですが、課題もあります。FSAの長年にわたるリソース不足がまだ解消されておらず、製品の承認遅れがまだ見られます。2022年、最初に提案された代替たんぱく質のスタートアップの詳細なガイドラインもまだ公開されていないため、一部の企業は書類の準備が滞っているとのこと。食品開発に必要な試食の体制構築もこれからです。
とはいえ、「近代的で効率的な規制の枠組みがあれば、ライバル市場を凌駕しないまでも、簡単に匹敵するものになると確信しています。その見返りは、持続可能で耐久性のある供給源からの食料安全保障の向上です」と、細胞農業投資家で、Meatlyの株主であるAgronomicsのJim Mellonエグゼクティブチェアマンがメディアでこうコメントしました。
英国のサンドボックスは、韓国の特区とも違う、細胞性食品の開発・実用化を加速させる有力な手段であることが分かりました。ルール化が未整備な日本において学べることが多々ありそうです。
ジャーナリスト 中野栄子
東京都出身。慶應義塾大学文学部心理学科卒。日経BP社「Biotechnology Japan」副編集長、「日経レストラン」副編集長、「FoodScience」発行責任者、日本経済新聞社「NIKKEISTYLEグルメクラブ」編集長などを経て、現在フリーで食・健康・環境分野を取材・執筆中